初恋抄2020

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初恋抄(16)一行の力
2020年9月3日更新

私は二人の姪(凉、芽)と一緒に住んでいる。現在、私と母と姪二人という女ばかりの四人家族だ。この家に住んでいると必然的に川柳をやらなくてはならないのだが、正直、姪二人が本当に好きで川柳をしてくれているのか心配だった。なぜなら、私が留守にしている時に句会を欠席することが多々あったからだ。

「ネエタンが留守の時こそ句会に行ってよ!」 と、何度言ったことだろう。だが「しなければならない川柳」は決して楽しいものではない。旅行しながら一緒に遠出していた大会は軒並み誌上大会になり、旅行の楽しみも無くなってしまった。私は子供達には川柳を嫌いになってほしくないとずっと思っている。凉と芽がいつか作句しなくなってしまうのではないかと心配しているのだが、二人はそんなことはつゆ知らずのほほんと締切間近の投句用紙を横目にYouTubeを見ている。果たして「わかば川柳会」と「卑弥呼の里川柳会」をこの子達が続けてくれるだろうか。いや、逆に私の代で終わらせなければ、こんなに大変な思いをこの子達にさせるわけにはいかない、そんな葛藤の中で日々過ごしてきた。

先日、凉の高校の三者面談があった。そこで、学校のことや部活動のこと、進学のことなど先生とじっくり話し合った。ふと先生の机を見ると、凉が書いた自分の将来設計が置かれていた。家では何度聞いても「ん~大学とか行ってみたいけど、夢が無かとさ。だけんどこに行けばいいか分からん」と言っていたくせに、しっかりと書かれているようだった。気になって先生に「その紙、見せてもらえませんか?」とお願いした。すると将来の夢の欄に「川柳を教えたい」と大きく書かれていた。

泣きそうになる気持ちを抑えて、隣に座っている凉に「そんなこと思いよったと?」と小声で聞く。凉は「うん。せっかく川柳しよるし、家族で出来るやん」と照れくさそうに答える。先生から「ご家族で川柳をされていることは知っていましたが、川柳を教えることで生活はできるのですか?」という直球の質問をされたが「厳しい世界ですが、できます。これからは、もっとそうなるように私も頑張りたいと思っています」と堂々と答えた。当事者の凉の瞳よりも、そう答える私の瞳の方がずっとキラキラしていたことだろうと思うと恥ずかしいが、「川柳を教えたい」という凉の一行に、私は大きな大きな勇気をもらった。きっと芽も、凉と同じ気持ちだと信じている。真島家の未来は明るい。

初恋抄(15)思い出の手紙
2020年8月3日更新

私の部屋には書類用の棚があり、十個の引き出しが付いている。こう言えば立派な棚に聞こえるが、プラスチック製で引き出しの色がそれぞれ違って「見た目」で選んだものだ。しかも2980円。もう十年近く使っているので、一度引き出すと元に戻すのも大変で、素敵だった見た目もガタガタのガチャガチャになってしまった。新しく注文した棚がやっと届いたので中身を整理しようと思ったのだが、もらった手紙というのがなかなか捨てられなくて困ってしまった。その中から一枚紹介したいと思う。

私が川柳塔の誌友になった頃、投句するだけではなく句会にも参加したいと思っていた。佐賀県には唐津市に川柳塔の句会があり、代表の仁部四郎さんにお願いして参加させてもらうことにした。私の住む吉野ヶ里から唐津までは車で片道一時間半ほどかかるのだが、山越えをして唐津の海に出る道が私も母もお気に入りだった。会場は小さな喫茶店のテーブル席で、私達を入れても六名ほど。とても小さな句会だったがアットホームで、そこに参加しているおばあちゃんの戦時中の恋の話を聞くのが楽しみだった。戦時中には珍しい恋愛結婚で、ドラマのような展開で毎回とてもドキドキした。

毎月一回の句会に一年ほど通った頃、四郎さんから手紙を頂いた。

「私達の句会は小さく、上達を目指す人というよりも頭の体操の一環として、おしゃべりの場として、参加している人の集まりです。お二人が参加してくださることは本当にありがたいと思っていますが、心を鬼にして申し上げます。この句会への参加はもう遠慮してください。長距離を運転して参加してくださっているのに、句会のレベルを考えると心苦しいのです。川柳塔唐津も私の代で終わりになると思います。こんなことを申し上げるのは私自身も辛いことだということを察していただければ幸いです。」

私は勝手に唐津の句会を盛り上げようと思っていた自分を恥じると同時に、こうやって心配りをしてくださる四郎さんの手紙に心が震えた。句の意味が分からないと言われることも多く、分かってもらえるように作句していた自分もいた。はっきり言ってもらえたことで救われた気持ちになった。

どこの句会も高齢化が進んでいる。来る者拒まずというわけではない。自分の気持ちだけで突っ走ってしまい、四郎さんに苦しい手紙を書かせてしまったことを反省している。ただ一つ心残りなのは、あのおばあちゃんの恋の話だ。彼が徴兵されたところまでしか聞いていない。おばあちゃんの恋のドラマの続きを想像しながら、手紙の整理を続けている。

初恋抄(14)「ここで一句!」
2020年7月1日更新

別に隠しているわけではないが、川柳をしていない人と交流をするとき自分から「川柳をしている」と言い出すことは滅多に無い。だが「久美ちゃん仕事はなにやってるの?」と聞かれると、私には「川柳」以外に答えるものがなく、そこからはもう質問攻めがお決まりのパターンだ。

特にやっかいなのが飲み会。酔っ払いは面倒だし(私はお酒を飲まない、というか飲めない)、川柳について熱く語ったとしても「じゃあ私も川柳を始めるわ!」なんて言う人はいるはずもない。誰かが「久美子って川柳を学校に教えに行ってるとよ~。新聞にも毎週載ってるとよ〜」なんて言い出すと、もう収拾がつかなくなる。「川柳って先生必要なの!?教えることあるの!?」「川柳って一句いくらになるの?」と質問の連続。さらには私が一番苦手な言葉「ここで一句!」が必ず登場する。それだけならまだしも「吟じます!」と言い出し「川柳のようなもの」を連発する輩も出る。即吟は得意な方ではあるが、川柳を「かわやなぎ」と読む友人達を前に何を詠めというのだ。だからといって「川柳のようなもの」に合わせることは私にはできないし、「私、真面目にやってるので」なんて言うと場は冷めるし、心の底から「やめてくれ」と言いたくなる。

みんなに共通しているのが、『川柳=サラリーマン川柳』ということ。サラリーマン川柳が悪いというわけではない。むしろわかりやすい面白さがあって、川柳の間口を広くしてくれている。サラリーマン川柳のお陰で川柳という言葉がメジャーなものになった。川柳を始める取っ掛かりにはもってこいである。問題は文芸川柳の認知度が絶望的に低いことだ。飲み会で「サラリーマン川柳と文芸川柳の違い」を力説すればするほど小難しいと思われてしまうのは当然で、その距離感にも葛藤を覚えるのだ。

二十年ほど前だが、私の親友が彼氏と同棲していて、そのアパートに集まる仲良しメンバーで作句していたことがある。みんな年齢が近いので、わかば川柳会に投句する一題三句をわいわいと作句していた。私に「この句はどがん?」と見せるので、句の上に○をつけて返す。その○が三つになると一題が終わる。そうこうしながら夜中まで作句する時間は本当に楽しいものだった。三年くらいで二人が別れてしまいその集まりもなくなってしまったが、その三年でみんなとても上手くなった。一緒に作句をすれば誰だって良い句を作れるようになることを私はそこで学んだのだが、川柳をしていない人との飲み会や食事会をきっかけにするには、まだまだ川柳という文芸の認知度が足りていないと感じている。「ここで一句!」へどう対応すればいいのか正解はわからないが、なんとかきっかけにできないものかといつも考えている。

「久美ちゃん仕事はなにやってるの?」に「川柳」と答えても質問攻めにならない世界に、いつかできるといいな。

初恋抄(13)ヨッシー
2020年6月1日更新

新型コロナの影響で、句会や大会に参加できないストレスの大きさに自分でも驚いている。春と秋は土日のほとんどが大会で埋まり、平日は句会や教室でいっぱいだ。そんなときは「なんで私はこんなに忙しいんだ。たまには休みたいよ…」なんてぼやいていたのに、いざ無くなってしまうと抜け殻になったような気分になる。今回気付いたのは、私は入選したくて大会に参加しているのではなく、柳友に会いたくて参加しているということ。吉野ヶ里大会も卑弥呼の里女流大会も誌上大会にせずに中止にしたのは、みんなで集まって会ってこその大会という気持ちが大きかったからだ。

私が今一番会いたい柳友は、東京在住の丸山芳夫さん。私は彼を「ヨッシー」と呼んでいる。毎週web句会にも投句している「ヨッシー」だ。彼と一緒に大会や句会に参加すると、楽しさが倍増する。ヨッシーはものすごくのんびり屋さんで、乗るはずの電車のドアが目の前で閉まってしまうことなど日常茶飯事。私は「超」がつくド田舎者で、都会の電車に乗るのが怖く(乗換えが苦手)、ヨッシーについて行くしかない。電車に乗るとヨッシーは若ぶって私に席を譲ってくれるところも好きだ。もっと好きなところは、すぐにタクシーに乗るところ。東京はドラマのようにすぐにタクシーがつかまるので、ヨッシーの右手が上がるのを今か今かと待ち構えている。ヨッシーはとにかく聞き上手のツッコミ上手。笑うツボが同じなので、いつも二人で大爆笑をしている。いや、大爆笑をしているのは私だけで、ヨッシーは両手を口に当てて静かにずっと笑っている。

一番の思い出は、大阪で開催された番傘川柳本社の大会に参加した帰りに、京都の嵐山を観光したこと。舟で16キロにも及ぶ保津川下りをしてクタクタになってしまい、嵐山を歩く元気が無くなってしまったので人力車で街を回った。そこから帰ろうとしたら、ヨッシーの足が痙攣してしまい京都に一泊。次の日は哲学の道を二人で歩いて、東京へと帰っていった。帰りのヨッシーのポケットには二千円しか残っていなかったので、帰って妹さんにそうとう叱られただろう。

ヨッシーは軽いパーキンソン病を患っている。川柳界には高齢の方が多く、病気を抱えて作句されている方もたくさんいる。だからこそ「生きる」という言葉が詠み込まれた句も多い。この「生きる」を詠み込むと、句に迫力がプラスされるのでテクニックとしてはアリなのだろうが、本当に「生きる」ことと向き合った句と、テクニックだけの句は違うと私は常々思っている。だが安易に使うべき言葉ではないと感じるのは、私自身がまだ「生きる」ことと本気で向き合っていないからなのだろう。

ヨッシーにはとにかく元気で長生きして欲しいと願っている。ヨッシーの句は言い得て妙なものが多く「確かに!」と納得すると同時に、よくもまあこんなどうでも良いことを十七音字にまとめるものだと、妙にスッキリした感覚が残る。「豆電球」という句集を出版しているので、ぜひとも読んでもらいたい。きっと、ヨッシーの飾らない「生きる」を感じてもらえると思う。

初恋抄(12)志
2020年5月1日更新

ときどき、福岡の梅崎流青さんとランチを食べる。お店はいつも同じ場所で、メニューも「花籠膳」と決まっている。流青さんが11時30分と時間を指定すると、私はその15分前にはお店に行って花籠膳を注文し、流青さんの到着と同時に花籠膳がテーブルに出てくるようにしている。これは、体育会系の方にはご理解いただける行動だと思う。

流青さんはいつも、いろんな話をしてくれる。私の勉強不足もあり、なにを言っているのか分からないこともある。そんな時は家に帰ってネットで検索するのだが、ネットでも調べきれない話もたくさんあって困っている。

先日のランチでのこと。終わったばかりの第8回卑弥呼の里誌上川柳大会について触れられた。これまでで一番多い投句をいただき、念願の全47都道府県からの投句を成し遂げることが出来たので、私はてっきり褒められるものだと思っていた。

流「久美子の営業力はよく分かった。だがこれからは、自分自身の句をもっと掘り下げてしっかり考えるべき時期だ」
私「え?私の句ですか?」
流「川柳に対する志はなんだ?久美子自身はどんな作家になろうと思っているんだ?」

とっさの質問に、私は何も答えることが出来なかった。私にとって川柳とは食事と一緒で、生きていく上で欠かせない当然の存在だからだ。当然の存在をどう言葉にすればいいのか分からなかった。それに「ごはんと一緒です」なんて子供じみた回答で流青さんが納得してくれるとも思えず、ただ黙ってしまった。それでも何とか答えなければならない重い質問だと感じたので必死で考えたが、何も言えなかった。当然、美味しいはずのランチの味は消え失せてしまったが、車の中でも、家に帰ってからも、ずっと考えていた。

「志」

書いてみれば、なんと見栄えの良い言葉だろうか。複数の柳社に所属して締切に追われ、目の前のことを片付けながら作句することにいっぱいいっぱいの自分がここにいる。私に「川柳に対する志」など本当にあるのか?私はどんな川柳作家になろうとしているのか?志も無く、ただひたすらに作句しているだけではないのか?川柳作家の真島久美子は空っぽだと言われても仕方がない。空っぽの私が産みだした句に誰が共感してくれるというのだ。

流青さんの質問は、未だに私の中で燻り続けている。今のままでは、私はこの質問の答えを見つけることはできないだろう。私の「志」とはなんだろうか。器用に作句出来ることが必ずしも自分の武器にはならないということを、心底痛感している。

初恋抄(11)久美子、初めての句集の序文
2020年4月4日掲載

新型コロナウイルスの影響で大会も句会も中止。本当なら今頃は、吉野ヶ里大会でお土産に配布する筍の様子を心配している頃だ。吉野ヶ里大会は中止にしたのだからもっと時間に余裕が出来てもいいはずなのだが、この忙しさは何だろうか。新聞もテレビもコロナの話ばかりでみなさまも「もう聞きたくない!」と言われそうなので新型コロナの話はこれくらいにして、生まれて初めての、句集の序文のことについて書きたいと思う。

数ヶ月前に、文ちゃんから「句集の序文を書いて欲しい」という依頼を受けた。私の悪い癖の一つに「安請け合いをする」というのがある。「え!?句集を出すの!?すごいやん!もちろんオッケーよ!」と答えながら、頭の中では「序文って序文のことだよな…書いたことないやつだよな…」と不安が広がっていた。どんな風に書けばいいのか他の句集の序文を片っ端から読み漁ったのだが、内容云々よりも県の会長など、立場のある人が書いているのが殆どだ。読めば読むほど、なんという恐ろしい話を受けてしまったのだろうかと、大きな後悔が襲ってきた。受ける方も受ける方だが、頼む方も頼む方だとため息が出る。忙しさも相まってなかなか書けないまま時間だけが過ぎていった。

とにかく書いてみようと思い、他の序文を真似て句評を中心に書いてみた。が、それは全く私の書きたいことではなかった。読めば読むほど、「これじゃない」と感じた。悩みに悩んで、文ちゃんに「他の本の序文は句に触れているのが多いけど、私は人間に触れてもいい?」とLINEをすると「もちろん。書きたいように書いてください」という返事をもらい、肩の力を抜いて自分の言葉で書き進めていくことができた。調べてみると、私と文ちゃんは出会ってそんなに長くないことを知る。私と文ちゃんはもう10年以上友達のような気がしていたのだが、初めて会ってから3年ほどしか経っておらず自分でもびっくりした。私は自分で言うのもなんだが人懐っこい性格。しかし文ちゃんは人を寄せ付けないオーラを放っている。仲良くなれないだろうと思っていた人と仲良くなるのは相当な時間が必要だ。必要なはずだ。だから出会って3年しか経っていなかったとは自分でも信じられなかった。

文ちゃんは頭が良くて生真面目で頑固。とにかく自分の意見を曲げない面倒くさい奴。そんな文ちゃんを心から信頼したのは、私の父が亡くなってすぐに沖縄からお参りに来てくれた時だった。文ちゃんは熊本県の日奈久で開催された大会の選者で、福岡空港からの移動の途中に我が家に寄ってくれた。元々父が選者の予定だったのだが、ガンで闘病中だったため父の代わりに文ちゃんが選者を引き受けてくれたのだ(参照:https://youtu.be/GVnQlu0yWRY)。その時文ちゃんと父の思い出を色々と話した。父との最後の旅行は沖縄だったのだが、その旅行にも文ちゃんは同行してくれた。文ちゃんは父のために大粒の涙を流しながら話してくれた。文ちゃんの涙を私は一生忘れない。

私の序文を読んだ人が、森山文切(文基)さんのことを少しでも理解してくれたら、私の苦労も報われると思っている。もうすぐ森山文切句集「せつえい」が我が家に届く。なんだか緊張するが、それがとても楽しみだ。こんな経験をさせてくれた文ちゃんに心から感謝している。

初恋抄(10)凉、初めての大会選者
2020年3月2日掲載

令和2年2月23日開催予定だった第一回熊本県川柳研究協議会川柳大会が新型コロナウイルスの影響で中止になった。大会前日の中止発表は代表の黒川孤遊さんのご英断だったと思う。

姪の真島凉が、その大会の選者の一人だった。現在中学三年生で、中学生の選者など前代未聞だろう。2年前の毎週web句会第100回での選者が人生初だったが、大会での選は初めて。私が「毎週webみたいにすれば大丈夫よ」と言っても「それは文ちゃんがいるけんやろ?リアル大会は一人で披講せんばやん。がばい緊張すっ」っとブツブツ言っていた。この大会は事前投句のみで、選は大会前に行う。事前投句が届いたときも「ネエタン、凉で良かとやか?不安しかなかよ~」と言いながら「アレ?入選句が足りない…」なんて言っているし、どうなることやらと心配していた。中止の連絡が来たときは、悔しいようなほっとしたような顔をしていた。

先日、選者の謝礼が郵便で届いた。凉は学校だったため机の上に置いた。どんな顔をするだろうかと楽しみに帰りを待つ。夕方帰ったきた凉は「これなん?」と言いながら開封。「わっ!!!ネエタン!ミッコちゃん!!お金もろうたよ!!」と、とても嬉しそうだった。
凉「こがんいっぱいもらって良かと!?」
私「よかよか。一生懸命に選したとやけん、ありがたくもらっときんしゃい」
凉「先にじいちゃんに見せとく!」と、謝礼を仏壇に上げる。
そして黒川孤遊さんへ電話をし「凉ね、初めて給料もらったよ。ありがとう!」と何度もお礼を言っていた。まだアルバイトもしたことがないのだから、そうとうビックリしたのだろう。私は初恋抄を書くときも、いろんな川柳誌の近詠鑑賞を書くときもいつも「なんば書こうかな…」と言っているらしく、「凉もいつか絶対にこのことを書く日が来るよね。ネエタンみたいに悩まんでいいように、この封筒は一生の宝物でとっとくよ!」と、ファイルに入れて引き出しに仕舞っていた。

選者を依頼されるということは、チャンスをいただくということだ。たくさんのチャンスをいただき、私はここまでやってこられた。凉も芽も、この毎週web句会では二度も選者をさせてもらった。凉は中学生ながら今回の大会の選者を依頼いただいた。それがどんなにすごいことなのか自覚しているだろうか。選者をする中学生がすごいのではなく、中学生に依頼する方がすごいのだということを分かっているだろうか。依頼してくれる方への感謝を感じてくれているのなら、二人が小さい頃から川柳をしてきたことは大成功だと思っている。

初恋抄(9)ヤング川柳
2020年2月5日掲載

西日本新聞で「ヤング川柳」というコーナーを担当させていただいている。小学生から高校生まで、毎月約1600句の投句があり、毎週土曜日に入選句16句ずつと私の評が掲載されている。もう10年以上続けているし、毎週なので評にも締切にも四苦八苦しているのだが、子供達の感性に触れながら選をする時間は自分の原点を見ているようで幸せだ。

ある日「ヤング川柳」について、とある学校の先生から手紙を頂いた。「同じ生徒が入選していることが多いので、なんとか他の生徒も入選にしていただけませんか」という内容だった。私は入選句を決めるまでは作者名は見ない。「良い句だけど、この子はこの前入選したから今回は他の子の句にしよう」とか「あまり良い句じゃないけど、最近入選していないからオマケで入選にしよう」などと考えたことはないし、これからもこの姿勢を変えるつもりはない。子供達はみんな一生懸命に作句している。その姿を近くで見ている先生の気持ちはよく分かるのだが、句の良し悪しを度返しして掲載することは、子供達の努力を踏みにじることになりはしないか。学校では道徳の授業などで「平等」を学ぶ機会も多いだろう。私は「ヤング川柳」における「平等」は、みんなが順番に掲載されることではなく、誰の句であっても良い句がきちんと評価されることだと思っている。

手紙をもらったのと同じ頃、私が担当している別の小学校の川柳教室で生徒の一人が私のところに来て、
「久美子先生、私の句はまだ一回も新聞に載ってないよ。そろそろ私の番じゃないの?」
と言った。手紙との偶然に驚いたが、私はその子にこう言った。
「入選するということはとても難しいことよ。上手い子は何回も入選するし、6年間投句し続けても一回も入選できない子もいっぱいいると。だから先生はここで上手になるいろんなヒントを出してるよね?いつか入選するように、先生と一緒に頑張ろうね!」
残念そうなその子の顔を見ながら、私に手紙を書いてくれた先生の気持ちが痛いほど伝わってきた。

このお話は以前西日本新聞にも書かせていただいた。私の想いが伝わっているかはわからないが、変わらず毎月たくさんの投句をいただいている。責任の重さを感じながら、子供達の句と向き合う日々である。

初恋抄(8)佐賀県文学賞
2020年1月4日掲載

あけましておめでとうございます。今年も初恋抄によろしくお付き合いいただけたら幸いです。

私の地元、佐賀県では毎年「佐賀県文学賞」が開催されている。私が子供の頃はジュニアの部がなかったので、一般の部に投句していた。「通知表母が無言になりました」という句が小学4年生の時に入選して、とても嬉しかったことを覚えている(現在は小学生の部、中学生の部もある)。

この佐賀県文学賞だが、長年投句しているとどんな句が入選するのか「傾向と対策」という川柳家としては非常に面白くない現実が見えてくる。文学賞用に作句すれば入選するのだ。文学賞用の句が入選して新聞に掲載され、表彰式の様子も地元のニュースで流れる。いつも私は「文学賞用」の句でいただいた賞状を前に「これでいいのか?」と自問自答していた。これが川柳だと胸を張って言える句なのかもしれない。だが、これが「私の川柳だ」と胸を張って言えないではないか。そんな迷いを、毎年ごまかしながら投句を続けていた。

私はこの毎週web句会のみなさんの入選句を見る度に度肝を抜かれる。伝統川柳の中で生きてきた私にとって、毎週web句会の句は本気で入選しようと思っているとは思えないからだ。だが、その句の全てが輝いていて、信じられないほど自由で、その発想も表現も羨ましいとしか言いようがない。だから私も勝負することにした。

私は佐賀県文学賞に初めて「自分が好きな自分の句」を5句投句した。投句用紙を母に渡すと「これで良かと?」と言われたが「今回は好きな句だけ出す。入選せんやったらそいで良か。入選して嬉しか句だけ出すことにしたと」と答えたので、母は投げやりに感じたかもしれない。確かに、投句した後の「一席とっちゃうかも~」という図々しいワクワク感は一切無かった。

結果は信じられないことに「一席」だった。入選してこんなに嬉しいと思ったことは初めてで「え?え!?あの句が一席!?なんで!?」と、訳の分からない言葉を連呼してしまうほど、嬉しかった。自分らしさを認めてもらえることが、こんなに嬉しいことなんだと初めて知ったのだ。もちろん、毎回上手くいくわけではないが、これからも「自分らしさ」を大事に作句していこうと思う。毎週web句会の入選句を見ながら、この気持ちをしっかり磨いていきたい。

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